自動車についてはこうです。79年の第2次石油ショック以降、燃費が良くてメンテナンスも楽な日本車が、アメリカ市場で人気を高め、販売量を急増させました。アメリカ自動車業界は、折からの不況状態は日本車のせいだとして、その対米輸出の規制を政府に要求。81年度については日本側が「自主規制」によって年間168万台という対米輸出枠を守ることで、日米両国政府が合意。84年度には「自主規制」枠は185万台、85年度以降は230万台。アメリカの自動車業界はいま、100万台減らせと要求しています。日本の対米輸出は、自動車、家電、精密機械、通信・情報機器という4つの産業の製品を中心に急増を続けた。それと並行してアメリカの貿易赤字は激増、85年にはついに純債務国に転落。この状況に苛立つアメリカ産業界は、日本製品の輸入制限措置を求めたり、日本が農産物輸入を自由化するよう求めたり、日本の公共事業へのアメリカ企業の参加の保証を求めたり、日本の技術開発をアメリカの軍事機密の枠でしばろうとしたり、さらには日本の防衛努力がたりないと批判したりと、摩擦面をどんどん拡大しつつあります。しかしアメリカの苦境は日本のせいだけではありません。むりやりドル高を続けたこと、アメリカ企業の多国籍化を進めたことも原因です。摩擦緩和のためには、日本は、理不尽な外圧には屈せず、日本の行動の正すべきところは正すという道を進むべきです。
1990年代前半の世界は、米ソの冷戦が終った下で、新しい世界秩序を模索している時代だといえると思います。まず80年代以降の世界の大きな流れを振り返ってみましょう。81年の初め、東西の緊張が再び強まってきた時に、アメリカではカーターに代わって“強いアメリカ”を掲げたレーガンが大統領に当選しました。レーガンはソ連を戦略上の脅威とみなし、これに対抗する軍事力の強化を進め、対ソ強硬路線をとりました。ソ連側もブレジネフ、アンドロポフ書記長の下で、対米強硬路線をとり米ソ対立は緊張感を高めました。しかし幸いにも、85年、チェルネンコ書記長の死後ソ連共産党書記長となったゴルバチョフは、国内のペレストロイカ推進を基本路線として対米スタンスを根本的に転換しました。それのみでなく東欧の社会主義経済圏に対してもゴルバチョフは柔軟な自由化路線をとります。こうしてレーガンそしてブッシュも次第にゴルバチョフへの信頼を深め、歴史は米ソ冷戦の終結へと向かいだしたのです。
会社の中では経理や販売のプロだと自任していた人が、他社で経理のプロ、販売のプロとして生きていくことを迫られたとたん、思考停止に陥ってしまう。自分の身を自分で守らなければならないという危機感を持つと、自然と、世の中の動きはどうなっていくか、その中で自分をどう売っていくかということを考えるようになり、次々と情報を仕入れる努力をするようになる。ところが大企業の中にいると、誰しも自分の身は安泰だと思い込みがちになる。だからマーケットの情報収集よりも社内のポリティクスの方向にセンサーが働いてしまう。それは会社人ではあっても、社会人とは言わない。社会に窓を開いていないからである。日本の企業は、揺り寵から墓場まで面倒をみてくれるという幻想を、働く者たちに抱かせてきた。それが個々人の思考停止につながっているということは否めない事実だ。だが、急激な進歩をとげようとしているマーケットは、それを許しはしない。しかし、開かれた窓の向こうに広がったマーケットは、厳しくはあるが、リスクに見合ったリターンが得られる、自由な世界なのである。